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re-Heart Note

リハート、それは心癒す日々。

美容内科医 服部達也 ブログ
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給食、なつかし。
昨日いつも行くお寿司屋さんで、給食の話になった。
というのも、僕が最後に納豆巻きを頼んで、納豆が給食によく出ていたという話をしたところ、
一緒に行った知人が、納豆が給食に出たことなんて無い、と言い出したのだ。

それからひとしきり給食の話に。

その知人が言うには、どうしても好きになれなかったのが、「くじらのから揚げ」。
これがなかなか食べられなくて、いつもお残りで食べさせられたと。
むむ、そうか。
ぼくの「給食好きなおかず」ベスト3には、「くじらの竜田揚げ、ケチャップ煮」がランクインしているというのに。

で、ぼくは茨城県の小学校に通っていたから、納豆はかなりの頻度で出てくる上、たしか「つと」入りのものも出てた記憶がある。
みそピーナッツもよく出てきていたが、これは知らない人が多い。
千葉や茨城の名産で、ピーナッツが入った甘い味噌みたいなもの。
これをご飯のおかずとして食べるのだ。
ソウルフード激ウマ。(゚д゚)ウマー

あとは、シソの葉にみそをくるんで素揚げしたもの。
これもご飯のおかずとして出る。
見た目はかなり貧相で、材料も味噌とシソだけ。
それでいて、いくらでも食べられるおいしさ。
これでご飯を食べさせられる、質素さ。
おやつとしてもしょっちゅう食べていた。
なぜか甘くてウマー。 (゚д゚)ウマー

時代が変わると、あの、袋に入っているうどんも知らない人がいて、おどろく。
あたためられたうどん袋と汁が渡され、各自うどんを汁に入れて食べる。
もみながらうどんを出していく楽しみ。
That's給食。

コーンパンという不思議なパンが大好きだったが、友達にはこれを嫌いなやつが多く、ぼくはたいてい3つか4つも食べられる僥倖にありついていた。
黄色いぶつぶつが入った、奇妙なパンなのだが(あれがコーンか?)、このあいだ街で見かけたので思わずゲット。
懐かしウマーだったね。


最近では、スエヒロなどの有名なお店が給食を提供している学校もあるようだけど、やっぱり給食ってのは、安っぽい感じ(失礼)のがいいやね。
嫌いなものは無理して食べなくてもいいと、お残りも無くなってきてるみたいだけど、甘やかしすぎでしょ。
クラスで一番かわいい子が、牛乳を鼻から噴出させてるのを見てしまったり、いじめっこが5時間目になっても1人で給食と対面させられたり、といったノスタルジックな光景はもう見られなくなっているんだろう。
もらい過ぎて溜めておいたコーンパンが、机の中で異臭を放つことも、もうないのか。


給食の思い出は他にたくさんあったけど、あまりにむかし過ぎて、なんだかはっきりしないね。

みんなは思い出の給食とか、ありますか??
| 服部達也 | 回想録 | 13:23 | comments(2) | - |
反省文 その1
いろいろ医療問題とか、医者のこととか偉そうに書いている私ですが、もちろん自分自身いろんな失敗を繰り返し、それを経験としてがんばってきた。
今日は、そんな失敗談を、思い返してみる。


医者も2年目ともなると、すこし技術的にも自信が出て、何でもやりたがるようになる。
経中心静脈栄養といって、腕からの点滴ではなく、高カロリーの輸液を行うためにぶっとい血管にカテーテル(管)を差し込む手技がある。
これらのぶっとい血管は目に見えず、解剖学的な知識と手の感覚を頼りに太い針を刺すため、なかなか穿刺が困難なことがある。

僕が診させていただいていた肺癌の患者さん。
肺癌の中でも悪性度が高く、転移をしてしまい、放射線治療をした。
そして放射線治療の副作用で、食道に炎症を起こし、食事が摂れなくなってしまった。
そうなると、固形物を無理に飲み込むと悪化させてしまうから、高カロリー輸液で栄養を補い、炎症が治まるのを待つ。

そこで患者さんにその旨を伝えて、中心静脈栄養を行いましょうと提案。
しかし患者さんは、そんな太い点滴を入れるのはいやだ、食べなくても水飲んでりゃ死ぬことはないと拒否。
たしかにその通りなのだが、放射線治療に耐えるには、それなりに体力が必要で、そのためにも高カロリー輸液は必要なのである。
そう説得し、しぶしぶ患者さんの了解を得たのであるが、自分としてはカテーテル留置に自信があったし、やや高度なテクニックが必要とされる首の血管への穿刺を行うことにした。
近くには頚動脈や気管が通っていて、手技を間違えると大変なことになる。

で、いざ始めてみたのだが、いっかな血管に刺さらない。
血管にあたっても、カテーテルが入っていかない。
すったもんだしたあげく、患者さんも疲れてきてしまい、中止…

結局、患者さんは経口の栄養剤を飲んで、放射線治療を乗り切ったわけだが。
手技がうまくいかなかったということでも気持ちがへこんだのであるが、それよりなにより、乗り気ではない患者さんを説得して、なおかつ失敗して心身ともに負担をかけてしまった。
しかもその裏には、自分の手技への自身とおごりが少なからずあったわけで。
最終的にそれをせずとも乗り切ったわけだから、本当にその治療が必要だったのか、冷静に考えることができていたのか。

自分の判断の甘さと、技量の未熟さで、患者さんに負担を強い、信頼を損ねる結果を招いてしまった。
このことは、自分のおごりを鎮めるとともに、患者さんの視点に立って物事を考えるための反省材料になったのである。

患者さんにはしっかり謝罪し(結局、先生の練習台にさせられただけじゃ無いのか、と批判された)、その後は良い関係に修復できたが、迷惑かけたことは素直に反省するしかない。

ただ単に注射を失敗することは、ままあるが、心理的な要素も絡んでいたことは、首の動脈を傷つけるような大きな事故を起こさなかったことがマシなだけで、いまだに思い出しては反省しているのである。
しかも、その患者さんは結局半年後に亡くなってしまい、よりいっそう苦い思い出となっているのである。
| 服部達也 | 回想録 | 14:56 | comments(5) | - |
レーシック、その後
水曜日から風邪を引いてしまって、いま点滴をしている最中。
点滴しながらブログを書いている私って・・・
ま、点滴中って時間をもてあますもんだからね。


レーシックの手術を受ける前に担当医から言われていたこと。
・視力が悪いから、完全に矯正できないかもしれない。0.8くらいには持って行きたい。
・ただ、視力が今みたいに悪くなることはありえない(また進行することは無い)。
・まだ新しい治療法なので、長い目で見た副作用は分からない。
・視力が悪い分たくさん削るから、再手術はできない(通常、いまいち視力が戻らない場合には、再手術してくれる)

0.8でも、0.03にくらべると、27倍もジャンプアップである。
ま、それらも含め、前もって言われたことをよく理解して手術したわけさ。

やー、快適だったねぇ。
一番効果を実感したのが、夜中呼び出されたとき。
寝ていても、救急患者さんとかが来ると、呼ばれて診察や治療をしなければならないときが、多々ある。
コンタクトをして寝ると、目を覚ましたときにはおそろしいほど乾燥していて、不愉快この上ない。
はずして寝ていても、めがねが無いから、治療するときにはコンタクトをはめる。
寝おきのコンタクトは目にしみて、不快。

それがさ、レーシックをした後は、目が覚めてもそのまま裸眼でがんがん物が見えるわけよ。
最高だったね。


手術してからは視力が1.2〜1.5で安定していたのだが、現在の視力は0.4。
またコンタクト生活に戻ってま〜す!! (///∇///) テヘッ

手術してから3年くらい経ったころ、どうも夜中の運転があぶなっかしい。
雨なんか降った日にゃ、なんだかよく見えない。
これはおかしいと眼科を受診したら、近視になっています。めがねが必要です。
だと。

たしか手術をする前に、「視力がまた悪くなるようなことはありません」と言われたはずだ。
手術を受けた病院に電話して聞いてみた。
すると「いやー、これまでまた目が悪くなった人なんていませんね。聞いたこともありません。ちょっとめずらしいので、見せに来てください」と。

鹿島の田舎暮らしのため、めんどくさくて結局受診しなかったけど、教科書とかでいろいろ調べてみた。
すると、レーシックをしたあとも、視力が戻ってしまうことがある、と書いてあるじゃないですか。
うーん、これはまいった。
しかも、将来白内障になる可能性がある、とも書いてある。

視力が戻ることは無い、将来的な副作用は分からない、と説明してくれた医者は、単なる無知か。はたまた騙されたのか。
天下の井上眼科ともあろうところが、こちらが医者と分かった上での狼藉。

とはいえ、僕も医者。
あのときの医者が、そんな騙すようなことはあるまい。
そんな態度じゃなかったし。
単に無知なだけだったのだろう、と判断。
自分でも調べられたはずなのに、それを怠った自分も良くない。
3年間は幸せだったじゃないか。。。

と、自分を納得させ、コンタクト生活も甘んじて受け入れている。
変形した角膜と、将来的な白内障のリスクを持ちながら。

やはりどんな手術であっても、リスクがゼロというものはありえず、しかも病気の治療のため仕方なくやるという類のものではないから、相応の覚悟が必要だ。
半端な覚悟で手術を受けて、合併症が出たら医者の責任を追求するなんて、都合が良すぎる。
自分で選択して、手術を受けたわけだから、今の状況に全く不満はないし、後悔なんてしていない

ただ、再手術して視力を矯正できないのが口惜しい。
そこで発見したのが、レーシックに変わる新しい視力矯正手術。
その名も「PIOL」。
目の水晶体の上(角膜の下)に、コンタクトレンズのようなものを埋め込む手術。
目の中にレンズを埋め込むのである。
角膜にちょっと穴を開けて、そこから差し込むだけ。
これだと、視力が変わったらレンズを取り替えるだけでOKだ。
もちろん、将来的な副作用は分からない。
いまのところ一部の大学病院や特定の病院でしか受けられないらしく、さらに治療費が片目40〜60万もするらしい。
しばらく様子を見るけど、いつかトライしちゃうもんね。
なんとか片目5万くらいにならないもんかな。

ま、レーシックが夢のような治療法だと勘違いさせてしまう広告は解せないし、それに踊らされちゃいかんよ。
成功する人のほうが多いのは確かだけど、うまくいかない人も、現実にいるわけだから。
| 服部達也 | 回想録 | 13:06 | comments(7) | - |
レーシックを受けたこと。その2
うむ。昨日の続き。

レーシック手術を受ける前に、2週間程度、コンタクトをしてはいけない期間がある。
コンタクトをしていると、アイマークとか何とか言って、レンズのあとが目に残るらしい。
角膜を削るわけで、フラットな状態に戻していないといけない。
それに、2週間かかるらしい。

コンタクトに頼りきりの生活をしていたので、わたくし、めがねを作っておらず。
であるから、コンタクトができない2週間は、完全裸眼生活。
苦労する。

鹿島という田舎暮らしのため、車で通勤。
0.03では運転できっこないから、親に事情を話して、送り迎えをしてもらうことに…

ところが親にとってその提案は、まさに寝耳に水。
目の手術をするっていうのは、大変なこと。それを、何の相談もなくひとりで決めてしまうなんて、といったところか。
そりゃそうかもしれん。何事も(治療法とかも)拍子抜けするほどあっさり決めてしまう私。
意外に熟考してるんだけどね。

送り迎えをしてもらえることになったが、仕事が大変。
レントゲンはよく見えないし(他の医者にも手伝ってもらってた)、廊下で患者さんとすれ違っても誰だか分からないし。
注射は、目を近づけたらなんとかなったかな。。

周りに支えてもらっての2週間。
いよいよ、手術である。
ちなみに手術代は片目20万。
両目あわせて40万を現金で持っていき、それだけで興奮状態。( ̄●● ̄)

着いたら軽く診察をして、痛み止めのロキソニンを2錠飲まされる。
ロッカーで着替えて、手術台に座る。

目の周りをシートで覆い、目薬タイプの麻酔をされる。
麻酔が効いたところで、目が閉じないように、器具でがっちり全開のまま固定。
局所麻酔だから、普通に風景は見える(近眼のため、それなり)。
じゃー始めますね、と巨大な“かんな”が近づく。
かんなで角膜を薄ーく削っているらしく、うぃんうぃん聞こえる。

それから、赤いレーザーが近づいてきて、角膜をくりぬいていく。
あまりにも至近距離過ぎて、何やられているかわからない。
正面を見つめていてくださいと言われても、感覚がおかしくなっていて、目を開けているんだか閉じているんだか(固定されているから開いてるに決まってるんだろうけど)、どこ見てんだかも、まったくわからない。

およそ15分。
両目が終わり、器具がはずされる。
ちょっとまぶしい感じがするが、おお、はっきり物が見えるではないですか!!(☆o☆)


終わった直後から、視力は2.0(落ち着いて1.5くらいに戻る)。
痛みは全くなく、コンタクトしてんだっけ?これ。
みたいな。

眼球を固定する吸引器のせいで、白目に内出血ができたけど、そんなのどうってことない。
なんせ、視力が裸眼で2.0になったのである。
ああ、普通に見えるって、幸せなんだね。

その日はそのまま御茶ノ水近辺に泊まり、鹿島へ凱旋帰国をしたのである。
そういえば、最初の診察時になんか合併症とか注意されてたっけなぁ、なんてことは、有頂天になった私の脳裏の、ほんの片隅にも浮かぶことは無かったのである。

⇒金曜日に続く
| 服部達也 | 回想録 | 13:12 | comments(0) | - |
レーシック(視力矯正手術)を受けたこと。
ぼくは小学校5年生くらいから、視力が低下してきている。
それまではずっと1.5あるいは2.0だった。
田舎暮らしでのびのび過ごしていたからに違いない。
それが東京の小学校に転校してきて、都会の生活になった途端、目が悪くなった。

以来、視力低下はとどまるところを知らず、中学3年からコンタクトになり、大学生のころには視力0.03くらい。
当時のコンタクト技術では矯正しきれないほど(強度にしたらー9.5)。

で、医者になって4年目のある日(当時は茨城県の鹿島市で勤務)。
テレビでレーシックという視力回復手術を見た。
角膜をレーザーでレンズ型にくりぬく、という治療法だ。
もちろん医者として知ってはいたが、一般人になりきって見るテレビの影響は大きい。
すぐさまレーシックをおこなっている病院を調べ、受診した。

選んだのは、御茶ノ水にある井上眼科。
ここは私立の眼科として、日本有数の病院であると理解していたが、そこがレーシック専門のクリニックを開いていると知り、決めたのだ。
目と言う大事な器官をいじるわけだから、それなりの病院で無いと心配だ。


角膜の厚さを測り、視力(強度)を測り、女性の院長の診察を受ける。
結果。
視力が悪すぎる。
視力の程度によって角膜を削る深さを決めるのだが、僕の視力では、角膜を相当削らなくてはならず、そこまで削ると中身が出てきてしまう。
だから、手術できません。

いや、そこをなんとか、完全に矯正できなくてもいいんで・・・とだめもとで言ってみると、職業は何ですか?と聞いてくる。
医者です、と答えたところ、それなら手術しましょうと。
医者で、合併症や副作用を理解したうえでの決意でしょうから、それなら手術しましょう、ということになったのだ。
やったね。


さあ、テレビを見て手術を決めるまでわずか数日という、いつもながらの選択の早さ。
いよいよ手術へと向かうのであった。

⇒明日へと続く。
| 服部達也 | 回想録 | 18:21 | comments(1) | - |
校則
昨日、試用期間中の脱毛レーザーを自分で鏡を見ながらあて(ほっぺた)、顔が赤くなってへこんでいる私。
自分で鏡を見ながら打つって、難しいのね。。


昨日だか一昨日だかのニュースでこんなのがあった。
「○○学園に通っていた女子高生が、芸能活動の一環として写真集を出したところ、在学中は芸能活動をしてはならないとする校則に反したため退学処分になっていた。それを不服として裁判を起こしたが、認められず、復学はかなわなかった」
裁判所は、校則は知っていたはずだから退学処分は仕方ない、という判断らしい。
詳しいことはこの場では書かないけれど。

ぼくは開成に行っていたが、基本的に校則はゆるかった。
男子校だから、というのもあるとは思うけど、細かいことも言われず、のんびりしていたと思う。
制服も、あんまりちゃんと着ていなかったし。

そんな学生時代で、ぼくは何回か退学の憂き目にあったことがある。

まずは、授業を抜け出して、遊びに行っていたのがばれたとき。
中学生のとき、出欠にあまりうるさくない先生がいた。
空席があっても、お、そこ休みか、くらいで。
で、そんな先生の授業のときは、友達と授業をサボり近くのゲームセンターに遊びに行く。
その授業が終わったころに戻って、次の授業は普通に出る。みたいな。
ところがあるとき曜日を間違えていて、めっちゃ厳しい先生のときに秋葉原に遊びに行ってしまった。
秋葉原から帰るときに気がついたものの、時すでに遅し。
悩んだ挙句、保健室に駆け込み、保健の先生に事情を話して1時間そこで寝ていたことにしてもらった。
のちのちその偽装工作もばれ、呼び出しをくらい、大変な目にあった。

具合が悪いとうそを言って早退し、友達の家に泊まりに行ったのがばれたときもあった。

ゲームセンターに向かう途中で校長先生にばったり出くわしてそっこー逃げたが、なぜか校長はぼくの顔を知っており、あとで僕だけ呼び出されたりもした。

高校生のとき、学校の前の中華料理屋から坦々麺を出前したのが、何を思ったか岡持ちが職員室に運んでしまい、大変なさわぎになったこともある。
絶対に直接教室に持ってくるように指示していたのに、職員室に行って、
3年6組に出前を頼まれたんですけどー、どこに持っていったら良いでしょうと聞いたらしい。
ぼくは友達に無理やり参加させられたのに、普段の行いからか先生には主犯格と思われ、退学させられそうになったのだ。


思い返してみると、どれもこれもくだらないものであるが、だいたいこういうものは積み重ねると、罪重くなる(下手なシャレ)。
なにかちょこまか悪戯をするたびに母親は学校に呼び出され、反省文を書かされていた。
たばこ吸ったり不純異性交遊(超古い)するわけではないからかわいいもんだと思うけど、くっだらないことで呼び出されて反省文書かされる親からすれば、たまったもんじゃなかっただろう。


校則ということで、なんとなく思い返した学生時代でありました。
| 服部達也 | 回想録 | 14:56 | comments(2) | - |
第4内科は死の香り
みんな、今年がうるう年だってこと、いつ知りましたか??
ぼくは、昨日。
昨日スタッフが、「明日で2月も終わりですね」とか言うから、「何言ってんの。今日28日でしょ。2月だよ。」
いえいえことしは29にちまであるんですけど。。。

子供のときは、来年(あるいは今年は)うるう年だから29日まであるからね!なんて教えてもらっていたけど、大人になるってのは、うるう年を自分で知るということなんだね…



たわごとはこれくらいにして、昨日のうわさ話しから関連した話。

ぼくがいた日本医科大学第4内科は、基本的に呼吸器内科と呼ばれる。
肺癌とか喘息とか肺気腫とか、呼吸に関する疾患を主に診る。
そしてそれ以外だと、感染症内科の面もあり、HIVなども診る。
腫瘍内科として、肺癌以外の腫瘍に対する抗がん剤治療もおこなう。
ぼくが実際に治療にあたったものとしては、乳がん、皮膚がん、胃がん、大腸がんなど。

腫瘍に対する抗がん剤の治療というと、進行していて手術ができなかった症例や、転移してしまった症例、再発症例などが多くなる。
良くなって退院される方が多いのだけれど、扱う病気からいって、不幸な転記をたどる患者さんも少なからずいる。


胃がんや大腸がんなどで外科に入院していた患者さんが、抗がん剤の治療をすることになって、転科してくる。
第4内科の病棟に移ってくるわけだ。

すると、多くの患者さんはこう言う。
「いやぁ、第4内科に移されたってことは、おれももう長くはないってことだな」
「第4内科に移ると、出て行くときは霊柩車だ」

違うんですよ。

第4内科に移るといかにも、殺されちゃう、みたいなうわさが流れているみたいだけど、
多くの患者さんが良くなって退院している。
他の科で診きれないような患者さんが多く紹介されてくるから、助けることができないような状態になっているような人も多くいる、ってことなんだよ。
医者はさ、命を助けるために治療に当たっているわけで、ここに移ってきたら死ぬ、とか言われると悲しいよね。

そんなことを言っている患者さんが、元気で退院していくのを見送るときは、そりゃ得意にもなるってもんだ。

命に関することは、デリケートな問題だから、いろんなうわさが立つのは仕方ない、ってことかもしれないね。
| 服部達也 | 回想録 | 13:26 | comments(2) | - |
また昔話ですが、受験のときのこと
この時期になると、やはり受験のことを思い出してしまう。
中学受験、大学受験、医師国家試験…中学以外は大変だった。
勉強してなかったから。


大学受験を控えて、東京のアパートを借りて母親と生活していたのだが、中学高校の堕落した生活で、すっかり勉強癖は無くなっていた。
僕の通っていた開成高校は、高3の2学期ともなると授業はほとんど無くなり、自宅や塾で各自受験に備えるようになる。
午前中くらいしか勉強しないことに決めた僕は、午後の大半をのんびり過ごしていた。

とはいえ受験生の身であるから、おおっぴらに遊ぶことはできない。
自室にこもり、おとなしく勉強しているように過ごすのが常であった。

部屋はアパートの1階にある。
自室でおとなしく過ごすのが耐えられなくなってきた僕は、ある日こっそり窓から外に出た。
玄関からスニーカーをベランダに出し、そーっとそーっと、塀を乗り越えて外に出る。
母親の部屋は隣だから、これはもう猫もびっくりするほどの猫足で。

外に出ると、そこにはなんともいえない開放感。
そしてちょっとの罪悪感には目を背け、ゲームセンターに。

一度外に出てからというもの、やみつきになってしまい、それからしょっちゅう家を抜け出すようになった。

あくまでも、母親を心配させまいという僕なりの気遣いも感じてほしい(勝手)。


抜け出して遊んでいる間は、そりゃちょっとは家が気になる。
ぼくが出ているのを気づいていないだろうか、気づいていても、言い出せないのであろうか。。

スパイ小説大好きな僕は、そんな心配を物理的に解決。

部屋の扉の一番ちょうつがいよりのところに、消しゴムの空のケースを立てておく。
僕がいない間に誰か(といっても母親しかいない)が扉を開けて入ってきたら、消しゴムのケースが倒れているはずだから、闖入者の存在が分かる、という仕掛け。


こんなおばかなトリックで調子に乗った僕は、毎日のようにベランダから外に忍び出ていた。

と、その日もすっかり遊んでゲームセンターを出ると、そこには母の姿が…
「あんた部屋抜け出してこんなとこで何やってんの!?」
ばれた。

家に帰って母が言うには、知人から僕に電話があって、つなごうと思いドアを開けたらもぬけのから。
びっくりして取り繕うのが精一杯だったと。

窓から部屋を抜け出していたこと、ゲームセンターに行っていたこと、常習だったことを話し、ただ申し訳ないと謝るしかなかった。
母親に余計な心配をかけないようにこっそり出て行っていたのだが、浅はかで、非常に悲しませてしまったと反省した。

ま、結局志望大学にそのまま合格することで、贖罪したと勝手に思っている。


もちろん、スパイトリックはきちんと働いていて消しゴムのケースは倒れていたが、
部屋に母親が入ってきたのを確認できたところで、怒られるに決まっているから、そんな陳腐な仕掛けは無意味だったのである。
| 服部達也 | 回想録 | 14:59 | comments(10) | - |
カンツォーネ
昨日、いつも良く行くイタリア料理屋にいったら、いつも満席なのに結構空いている。
おかしい。
お店に入って、さらに、おかしい。
ギター持ったおじいさんが、なんか歌うたっちゃってるじゃん。

よくみると、月曜日の8時から、生カンツォーネ演奏始めてマス、みたいなことが書いてある。
これか。

お店が空いているのが、そのおじいさんのせいかどうかは分からないが、みんな微妙な反応。
結構うるさいので、会話するのが大変。


海外なんかでも、こういう弾き語りみたいな人たちって、結構いる。
イタリアに行って、レストランで夕食をしたとき(サバティーニだったような)。

テーブル一つ一つまわって、歌を歌ってはチップを要求するという集団が、そこにもいた。
順番にまわっていて、あー、だんだん近づいてくるよ、とか半ば憂鬱げに眺めていた。

とうとう自分たちのテーブルに来てしまい、なにかリクエストしろと言う。
海外の曲で、しかもカンツォーネでやってもらう曲なんて、そんなに知らん。
20歳で、当時は山口百恵しか聞いてなかったし(もちろんすでに引退してた)。

とりあえず知っている曲を告げるが、他のテーブルでやった、もう弾いた、知らん、といわれるばかり。
最終的にうんざりした僕たちは、レットイットビー(!)をひいてもらって、ようやく退散していただけた。
それでチップ、取るものは取っていくという、なかば押しかけ強盗のようなもんじゃないかと思ってしまった。

あー、こういうところでも自分の教養の無さが、旅の恥を呼んでしまうもんだね。
カンツォーネを知っていれば、いろいろリクエストできて楽しめたかもしれないのに。


さびしそうに歌うカンツォーネおじいさんを見て、ふっとおもいだした、きまずい経験での話でした。
| 服部達也 | 回想録 | 17:17 | comments(2) | - |
のんびり訪問診療記 その3
江戸川区で訪問診療をしていたときの記憶である。
訪問診療は、自宅に入り込んで診察をするという特殊性から、外来では味わえない経験をさせてもらう。


さて、前回は家で看護をし、家で看取ることを決めたご家族の話でした。
今回は80代の女性(仮にBさん)で、同じように全身麻痺になってしまった方のお話です。

この方はある施設に入所していたが(老健だったかな)、入所期間が終わって自宅に戻ってきたという。
ちなみに老健(老人介護施設)とは、病院から自宅へ帰るリハビリ施設と定義されているところ。
ということで、入所は原則3ヶ月までとなっている。
老健に関しては行政と現実の差があまりにも大きく、絶対に取り上げなきゃいけない題材なので、あらためて書く予定。

Bさんの介護者は、息子さん。
独身で40代の方。

お母さんが帰ってきて、自宅でこれから介護をしなければならないということで、わざわざ部屋を増築し、お母さん専用の部屋をつくってその日を待っていたということ。
おお、えらいじゃん。
と、思っていた。

患者さん(Bさん)は、手足が拘縮してしまっていて、ぜんぜん関節が伸びない。
言葉も発せられない。うなずく程度。
自力では何もできないのである。

訪問診療は週1回のペースで行い、訪問看護、訪問介護(ヘルパーさん)とを併せて、ほぼ毎日行く形になっていた。


何回か通っているうちに、異常に気づき始める。
診察に伺うと、しきりに水分を欲しがる。
とこずれが悪化していく。
夏なのに、部屋はとても暑い。

ヘルパーさんが1日3回来ていて、看護師さんも週に3回。
医者(ぼく)も週1回来ているが、話を聞いてみると、それ以外の介護を息子さんは何もやっていないのだという。

床ずれを防ぐには、数十分おきの体位交換(体の向きを変えること)が必要だが、それができなければ、薬だけでは改善できない。
自力で動けないひとに、テーブルの上に飲み物を置いておいても、とれるわけがない。
夏場の部屋の高温は、ただでさえ水分を取れていないから、命とりだ。

介護ステーションやクリニックが連携して介護・治療に携わっても、やはりメインは家族。
家族に介護する心構えがないと、自宅介護はまず無理な話。

診療に通う頻度を週に2回3回と増やしてみたが、それでも限界はある。

体調が悪くなっていくばかりで、息子さんに話をしても、「施設はお金ばかりかかるし、入れるのが大変だから家で看る」の一点張り。
部屋をわざわざつくっても、ふだん鍵をかけてしまっていて立ち入りできないようになっている。
自力で動くことができない患者さんの部屋に鍵をつける必要が果たしてあるのか。

家で看ると言い張っていても、結局みることはなく(息子さんは仕事をしていないので、普段家にはいるのだ!)、全部介護サービスまかせ。
とこずれが悪化(栄養状態が悪いと治らない)してきたので、入院させて治療させようと提案しても、それも拒否。

これは虐待ですよ、といってもわかってもらえず。

結局、クリニックと訪問サービスのかたの粘り強い交渉でなんとか入院させることになったが、自宅で一人で介護するのは並大抵の努力ではむずかしく、それなりの心づもりが無ければ成り立たない。
自宅で寝たきりの親を介護しているといえば聞こえはいいが、実際にオムツすら替えず、水を飲ませることもしないのでは、それは実際のところ虐待である。


国のばかげた政策では、自宅で介護させるケースを増やすといっているが、受け入れる側の問題も分かっていない状態ではしょせん無理な話なのである。
療養型ベッドを廃止するのは、家で介護できる患者さんを家に帰すためといっているが、こういうケースがレアではないことを知って欲しいものである。
| 服部達也 | 回想録 | 12:48 | comments(0) | - |
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